大橋 奈央2022.02.21

震災という試練を乗り越え
復興を願い力強く歩む鈴木酒造店

株式会社鈴木酒造店 様

東日本大震災という試練

—— 天保年間から約200年間、海の酒を醸し続けてきた鈴木酒造店(以下:鈴木酒造)ですが、東日本大震災発による津波で蔵は流失。奇しくも震災の当日は、醪の仕込み終了を祝う「甑(こしき)倒し」の日だったそうですね。

鈴木 例年、うちは2月が甑倒しなんですけど、2011年だけ3月まで仕込みがあり、3月11日は甑倒しの日でした。蔵人たちと宴会をするため、15時に仕事を切り上げようと、準備をしていたら、突然とんでもない地響きが鳴って。未だかつて経験したことがないくらい大きく揺れました。母屋は倒れたものの、家族や蔵人、そして貯蔵庫にある酒は無事だったので、余震が来なければいいなと思っていたんですけど、周囲の状況を確認するため、堤防に上がったら、周りの川の水がないんですね。海の水も完全に引きだしていて。これは津波が来るなと。

ここに居てはまずいということで、弟が家族や蔵人を連れて避難し、自分は消防団として地域の人の避難誘導にあたりました。津波が自分たちの町を飲み込んでいったときの光景は、今でも鮮明に覚えています。この世の出来事だとは思えませんでしたね。

消防団としての活動が一段落した13日早朝、仲間たちと避難所である隣町の学校へ向かうと、広島県の救急車がいて。それを見て、すごくショックを受けました。県外の、しかも広島のような遠いところから応援に駆け付けるほど、緊急事態なんだって。原子力発電所の事故の影響で、警察の人たちはみんな白い防護服を着ているし、もう元の生活には戻れないんじゃないかって、不安でたまらなかったですね。
—— 蔵も住む場所も奪われ、大変な思いをされたと思うのですが、同年11月には日本酒造りを再開した鈴木さん。その原動力を教えてください。

鈴木 まず、避難先の人々に「何とか浪江のものを造ってくれ。酒を造ってくれ」と声をかけられたことですね。正直、自分のことで精いっぱいで、誰かを励まそうとかそんな状況ではなかったんですけど、みんな浪江のものにすがりたいって感じで、すごく悲痛な面持ちで話しかけてくれるんですよ。すると次第に、酒を造ることで、浪江の人たちを支えられるんじゃないかって思うようになって。これが1つ目の理由です。

次に、契約農家さんのご遺体に接したことです。お世話になった人だからちゃんとお別れしたいのに、きちんと挨拶ができる状況ではありませんでした。それを見て、人は二度殺されるんだなって悲しくなったと同時に思ったんです。契約農家さんの想いや震災のこと、そして浪江町の土地柄や歴史を伝えていかなければならないと。自分はモノを造っている人間だから、情報を発信することができるし、それこそが強みだって。これが2つ目の理由ですね。

3つ目の理由は、四季醸造をしたいという長年の夢を諦められなかったことです。先に話した2つの出来事が、もう一度酒造りをしたいという自分の心を動かしまして。4月上旬には勉強を兼ねて、関西圏の四季醸造の蔵を回らせてもらいました。そのときに伺わせていただいた泉酒造さんが、ちょうど自分が目指している日本酒造りをしていて。「自分もこの造りがしたい、やらなくてはならない」と強く思ったんです。この3つですね。僕がもう一度酒造りに取り組もうと思った理由は。
—— さまざまな思いが鈴木さんの心を動かしたのですね。なかでも地元の人々へ捧げるお酒を造りたいという思いが強かったと思うのですが、故郷を離れて、山形県で再始動することになった経緯を教えてください。

鈴木 東日本大震災が発生した年の5月頃だったかな。会津地方の酒蔵さんが、鈴木酒造で使っていた米を仕入れるから、試験所の酵母を使って一緒に酒を造らんかと声をかけてくれたんです。蔵は流されたけど、ちょうどうちの山廃酒母を研究用に試験所に預けていたので、それを用いて鈴木の酒を仕込もうって。

そのとき、今まで培ってきたご縁のある方たちと再び相まみえたことが本当に嬉しくて。また、一緒に酒を造れることがとてもありがたくてね。生きてる証を確認できたし、改めて自分には酒造りしかないなと。また、そのときに気がついたんです。これはもう場所じゃないなって。

そんなことを考えていたら、ご縁があって、後継者不足で酒造りを諦めていた山形県長井市の酒造会社(現:長井蔵)を引き継ぐことになりまして。同年11月から弟と酒造りを再開しました。あのとき、会津で酒造りをさせてもらえていなかったら、福島県での酒造りにこだわって、事業再開も遅れていたと思います。震災の翌春に、ご支援いただいた皆さんと酒造りができて本当に良かったです。